茅ヶ崎市、てっぽう道の茅ヶ崎ファミリークリニック、院長の石井です!
本当に蒸し暑い日が続いており、当院でもそんな気候で体調崩される大人もお子さんもたくさん外来に来られています。
本日は、「糖尿病」や「マンジャロ」、「喘息」は一旦離れて、当院名物の映画批評を論じたいと思います。
「良き映画は、心の薬なり。苦きも後に深く沁みいるもの。」
これは今ふと思いついた、即興で作った中国故事っぽい言葉ですが、こんな寝苦しく、暑苦しい夜にこそ、みなさん、いい映画を良い睡眠薬のようにして、ただ何も考えずに、ぼーっと観て寝ませんか。
それでは久々に行ってみましょう!!
カウントダウン茅ヶ崎FC的映画ランキング!!
80位 イン・ザ・スープ(1992)
本作は、インディペンデント映画黄金期における“メタ・セルフ・リフレクション”の一例。スティーヴ・ブシェミが演じる売れない脚本家が、自身の脚本を現実化させることで映画を「撮る」という行為がどれだけ滑稽で、狂気を孕んでいるかを可視化するということに実験的に取り組んでいます。そして、撮影には16mmフィルムが使われ、画面全体に「アートスクールの悪夢」的な質感が宿っているのもポイントです。さらに、セイモア・カッセルの役柄はジョン・カサヴェテス的な「ダメだが魅力的な男」の系譜に位置づけられます。
79位 アメリカン・ヒストリーX(1998)
「ファイトクラブ」で好演した、あの色男、エドワード・ノートンが筋肉と感情の両方を極限まで鍛え上げた演技は、あの年のアカデミーで受賞しなかったことが今なお議論の的と言われている、この作品です。
アメリカ社会のネオナチズムという、本当に暗くて嫌~な世界観を、この映画は映像に落とし込むことによって映画を大成させています。
白黒パートとカラーの切り替えによって、回想と現在、感情と理性、過去の罪と再生の試みが視覚的にシームレスに接続される映像。監督トニー・ケイは編集権を巡ってスタジオと大揉めし、「アラン・スミシー」名義で公開しようとしたが拒否されたエピソードは映画マニアの語り草です。はい、脱線しましたすみません。
何度でも言います。映画は表現芸術なのです。アメリカというある大国の光も、闇も、リアルのものとして表現し得たものは素晴らしい。そんなことを感じさせる作品です。
78位 ピアノ・レッスン(1993)
ジェーン・カンピオンが女性の身体性と沈黙の中の声を徹底的に掘り下げた作品。主人公エイダが「言葉を持たない存在」として描かれるが、それゆえにピアノという道具がまるで彼女の第二の身体のように機能する。その音としての女性としての身体性の美しさと儚さ。ハーヴェイ・カイテル演じるジョージの手つきが、セクシュアリティと支配の間を揺れる「触れ方」の表現になっており、観る者の倫理観を静かに試しているのには皆さんお気づきなのでしょうか?これってめちゃくちゃすごく耽美的、エロい実験じゃないですか。
さらに音楽を担当したマイケル・ナイマンのスコアは、構造的にバッハとミニマリズムの融合であり、映画の語り部そのものでもあり、映画としての見終わった後の余韻が半端ないんですけど、このモゾモゾする感じ、皆さんどうしたらいいでしょうか。
77位 イレイザーヘッド(1977)
以前もお伝えした鬼才のリンチ監督の作品の一つ、超現実的ホラー作品。
デイヴィッド・リンチの悪夢構造はフロイト的無意識を超えて、まさに「集合的悪夢」に突入しています。産業社会における男性の生殖恐怖、家庭内における音の暴力、死産と子育てのメタファーとしての“ミュータント・ベイビー”など、恐ろしく具体的な不安が抽象的に描かれております。
しかしもっとも特筆すべきは、この映画の音響デザインです。インダストリアル系の機械音を何重にも重ねたサウンドトラックは、もはや「音楽」というより純粋なノイズそのものなのです。でもホラー映画も表現芸術そのものですよね。
その不快な音と映像があえてズレて流れる演出は、まさに実験的で前衛的な映画そのものです。
76位 オールド・ボーイ(2003 韓国)
パク・チャヌクがフィルム・ノワールとギリシャ悲劇、さらにはアニメ『ルパン三世』の荒唐無稽さを融合させて創出した異常ジャンル「韓国ネオ・バロック」。ワンカット長回しでのハンマーアクションは演出技術としても名高いが、その実、囚われの人間の内的空間と“動的閉塞”を可視化するための装置。ラストの「記憶喪失」を選ぶ選択は、まさに“ポスト真実”の倫理観の先駆けとすら言える。マニアは「催眠術の女の声の変化」にすら注目すべきです。
75位 エレファント(2003)
私がアメリカにいた時分、本当に悲劇の極地とも言える事件がコロラドでありました。そうです、コロンバイン高校銃乱射事件です。まだ10代であった石井少年は、アパートの一室でこの事件の映像を観た日のあのときの衝撃を、40代のいまでも度々思い出します。
この映画は、この事件をモチーフに、映画監督のガス・ヴァン・サントはここで映画時間の「空虚性」と「不可逆性」を追求していきます。非常に嫌で、本来ならドキュメンタリー以外では許されなかった、リアリズムの残酷さをあえてフィクションの世界で表現しているのです。登場人物たちが同じ校舎内を別々の時間軸で歩く演出は、観客に“全能で無力な神の視点”を体験させるという不快さ、まさに不協和音です。台詞は即興、キャスティングは非プロ、カメラワークはステディカムによる追従と分断を強調。この構造は、タルコフスキーの『鏡』をアメリカの高校に再構築したかのような試みとも言える。フィクションでありながら、「現実の時間」を観せる稀有な作品。何度でも言いますが、映画としての極みは、表現芸術そのものであることなのです。
74位 男はつらいよ 寅次郎の青春(1992)
本作は、南国・宮崎県を舞台に、寅さんと若者たちの恋模様が交錯するハートフルな一編です。旅の途中、理髪店の女主人・蝶子(風吹ジュン)に出会った寅さんは、ふとしたきっかけで彼女の家に滞在することになります。蝶子には「鈴を鳴らした人と結婚する」というロマンチックなジンクスがあり、まさかの寅さんがその鈴を鳴らしてしまう展開に。大人の淡い恋が静かに描かれる一方で、満男(吉岡秀隆)と泉(後藤久美子)の若くて淡い若者たちの青春ストーリーも進展します。この二重に進む恋愛模様の演出がお見事です。
それでは、男はつらいよの映画としての凄さ、表現芸術としてのすごさについて解説します。
まず、寅さんという人物自体が、現代社会の合理性や競争とは相容れない“古き良き時代”の象徴であり、否定できない存在であること。彼は毎回、旅先で一瞬の出会いに心を揺らし、そして何も得ずに去っていく。この繰り返しの中に、「報われないけれど、だからこそ美しい」という日本的な哀感=“もののあはれ”が濃密に表現されています。
また、シリーズを通して描かれる各地の風景や人々の暮らしも、ただの背景ではなく、記録としても貴重であり、失われいく美しさです。日本の四季や風土、地方の言葉、家族の姿などが自然体で映し出され、それが詩のような叙情を生み出しています。

さらに、山田洋次監督の演出は控えめながらも細部にまで神経が行き届いており、登場人物たちの表情や沈黙にすら語らせる力があります。笑いと涙を行き来するような構成も、本当に見事であり、ギリシャ喜劇的である以前に芸術の本域であります。
「男はつらいよ」の叙情的芸術価値とは、「目立たずに残る美」「日常の中の詩」「報われなさの尊さ」といった、派手ではないが確かな感情の記録であり、だからこそ、日本文化の情緒と響き合うかたちで、多くの人の心に長く残っているのです。
ぼくは子供の頃から、喜劇役者・渥美清が寅さんで時々見せる悲しい目つきが大好きでした。なんで大人って、こんなにも自由で楽しそうなのに、こんなに悲しい顔をするのだろうか。失われていくものの美しさ、本当に毎日でも観ていたい、そんな美しい日本の世界がこの映画には今でもあります。
73位 スケアクロウ(1973)
アメリカン・ニューシネマの終焉期、ヴェトナム帰還兵と労働者階級の孤独が、ロードムービーとして詩的に昇華される。ジーン・ハックマンの「怒りと諦め」が交差する抑制的演技と、アル・パチーノの道化のような無垢さが生む化学反応は、70年代特有の人間臭さの極致。砂嵐、バー、田舎の駅といったシーンはすべて、失われたアメリカンドリームの廃墟を象徴しています。脚本には明示されていないですが、二人の関係性に潜む微細な“ホモソーシャルな情愛”も読み解けるというのが、どうでしょうか映画としての奥行きを表現していませんか。
72位 ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)
ラース・フォン・トリアーがドグマ95の原則を意図的に破りながらも、その精神性は継承した“反ミュージカル映画”。音楽は感情を増幅するのではなく、主人公が直面する悲劇を“逃避”するための幻覚装置として機能する。Bjorkの演技は「演技していない」というスタンスを貫いており、ラストの絞首台における絶叫は、演技史上でも屈指のドキュメンタリー的瞬間。歌詞の内容と死刑の進行がシンクロする編集も狂気の域。でもすばらしいじゃないですか、悲劇を盛り上げ、ミュージカルとしてのボルテージを挙げていくという演出が憎くて素晴らしいじゃないですか。
宴は常に狂気であり、人の人生も宴である。それならば、どんなに不幸な人の一生も、ミュージカルとして悲劇的に音楽的な色彩を増していくという演出が成り立ちます。
僕は何度でも言います。映画に正解なんてない。それは人生に正解がないことと等しい。それだからこそ、映画としての形式、形式美、アルゴリズム、こういったことに少しでも抵抗して、表現を高めたものは評価されるべきなのです。ミュージカルとしてのこの作品は、Bjorkという近年稀に見る表現巧者が魅せる一流の表現芸術です。
71位 レポマン(1984)
アレックス・コックスが核戦争、カルト宗教、宇宙人、資本主義の病理を80年代ロサンゼルスという瓦礫の中でコラージュしたカルト中のカルト。カメラワークやカット割りはB級でチープなのに、だからこそ逆に成立するリアルなカオスな世界があります。舞台美術にさりげなく置かれた「NO BRAND」の缶詰や商品は、資本主義の記号論的批評。音楽はパンク・ロックで統一され、映像と対立しながらも観客の中にある“反骨神経”を掻きむしるものです。
いかがでしたでしょうか。
もちろん、映画に正解なんてないし、
皆さんの好きな映画を否定するつもりはございません。
そんなことは百も承知で茅ヶ崎FC院長的な
自己主張、自己満足のランキングです。
またこれからも続けていきますので、
よろしくお願いいたします。
0歳から150歳まで、
予約なしでもみんなが笑顔になる、
茅ヶ崎ファミリークリニックです。
お気軽にどうぞ。
令和7年 7月16日
茅ヶ崎ファミリークリニック
院長 石井 尚
茅ヶ崎ファミリークリニック(内科・小児科・皮膚科)
〒253-0054 神奈川県茅ヶ崎市東海岸南5丁目1−21
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